日本では切迫早産で入院していた私でしたが、なんとか渡米の許可がおり、渡米から3ヶ月になる2014年3月に女の子を出産しました。
深く考える間もなく渡米し、アメリカで出産したわたし。
はじめての出産に加えて、はじめてのアメリカ生活、家族も友だちもいない‥という状況にすっかりメンタルがやられてしまいました。
今回は、そんなわたしがホームシックとマタニティーブルーを乗り越えるまでのいきさつを書いてみました。
はじめてのアメリカ暮らし、出産前。
渡米後、妊娠期間中は比較的のんきなもので、慣れない&友だちがいないながらも運転の練習をしたり、新生活の立ち上げにあたふたしたり、通院、家探し、引っ越し‥と忙しく過ごすうちに出産をむかえました。
この頃は、友だちがいないこともそんなに気にならず、1人でぶらぶらと過ごしていました。
出産後
出産直後は、あまりに忙しく、ブルーになっているヒマもなありませんでした。
アメリカでは、普通分娩の場合48時間以内に退院するのが一般的です。
私の場合、夜9時に出産。翌日は丸一日病院のベッドで授乳、出生・ソーシャルセキュリティー関係の書類作成、次々に来るカウンセラーや小児科医の対応などに追われます。そしてそ翌日昼過ぎには退院となりました。
日本のように赤ちゃんを預かってもらえることもなく、母体はまったく回復していませんが当然のように母子同室。泣きまくるので寝られません。
出産直後の夜中、「疲れたから一旦帰って家のベッドで寝たい」と言った夫に、人でなし‥と思ったことが忘れられません。
結局病室のソファベッドに泊まりました。あたりまえでしょ、だれも助けてくれる人いないのに!
退院後の暮らし 、マタニティーブルーのはじまり。
退院後はタイミングよく義母が手伝いに来てくれたので、料理、洗濯、掃除と、すべての家事をやってもらいました。これは今でも本当に感謝しています。
不安だらけの私の話をたくさん聞いて、励ましてくれました。よく、義理の親に来られても正直迷惑という話も聞きますが、私は本当に助けられました。
ですがいま振り返ると、この頃から、少しずつマタニティブルーになっていたのかもしれません。
授乳に苦戦する毎日
まず、授乳がとにかくうまくいきませんでした。
母乳は出ていたけれど、なれない授乳で乳首が切れたりととにかく激痛が続きました。
無痛分娩だった私は、出産よりも授乳トラブルがつらかった。
あまりに痛くてミルクを足したりしていましたが、母乳育児をしていく自信がなくなり、こんなにつらいならやめようと、小児科の先生にもそう伝えました。
こちらの先生も母乳育児を応援する姿勢ではあったものの、もしあなたがやめたいと思うなら、その決断は尊重するから相談してねと、そういう雰囲気でした。
かといって、やめようとして授乳をとめると、今度は胸がありえないほど張って固くなり、熱を持ち始めます。
これがまた、寝られないほど痛い。かといって赤ちゃんに飲ませるのも激痛。
こんなに授乳がつらいなんて誰も教えてくれなかった‥ママたちはみんなこんな大変なことを乗り越えていたのか‥と全ママ友だち、全世界のママたちを尊敬しました。
そして、授乳とはまた別問題でまったく寝ない我が子。
毎日常に眠たくて、「赤ちゃん いつから長く寝る」とかそんなことをたくさんググってました。
幸せなはずが絶望感にさいなまれる
そんな怒涛の毎日の中で、ふと、とにかくすべてが不安で孤独で絶望的に思える日々が続きました。
「おかあさんが帰ったら、昼間この子とふたりきりで、この先どうしたらいいんだろう」
「日本にいれば、家族も近くにいて会いに来てくれる友だちもたくさんいるのに、どうして私はこんなところにいるんだろう」
かわいいかわいい娘がうまれて、幸せ絶頂なはずなのに、それよりも不安、孤独、つらい、の方が大きくて、気づくと涙が出てきます。
今夫にその話をすると、そこまでひどい状況だと思っていなかったとのこと。
なるべく見せないようにしてたのは事実でした。
夫には娘をかわいいと思ってほしい、「つらい」の原因が娘をうんだせいだと思われたくないと、当時はそんなことを思ってたような気がします。
たぶん夫には理解不能でしょう。
2週間後お義母さんが帰国し、入れ替わりで実の母が手伝いにきてくれました。
本当にうれしくてうれしくてたまらなかったのですが、来る前から、母が帰ってしまうことを想像して泣いてしまうくらいにはひどい精神状態でした。
母と夫の支え
それでも、久しぶりに会えた母との2週間は本当に楽しかったです。
「孫は本当にかわいい。でもそれは、かわいい娘の子だからかわいいのよ、今はあなたのことが一番心配」
と常に私の精神状態を心配してくれていました。
心配されるくらい、毎日泣いていたと思います。
誤解を恐れずに言うと、産後しばらくは初めて顔を合わせた実の娘より、30年近く一緒に暮らしてきた母との絆の方が私にとっては強く、頼もしく、逃げ出して母のところへ行きたいと思った瞬間さえありました。
もちろん、我が子は本当にかわいくて、そして私が守らなくちゃいけないという強い気持ちはありました。でもそれ以上に、私の気持ちがとても弱っていたのでした。
夫も全力で私をサポートしてくれていました。
実の母の帰国後も、産後6週経つまでは私の分の食事もすべて作ってくれました。
母が帰ることが悲しくて泣いていた時も、「お母さんは日本に帰ったらひとりだけど、こっちはおれと○○(娘)がいるんだよ。泣く必要ないんだよ」
と言ってくれた記憶があります。
それでも、日中ずっと一緒にいてもらうわけにもいかず、ブルーな日々はしばらく続きました。
マタニティーブルーとホームシックを乗り越えて
その後友だちが増えてアメリカでの生活や育児が楽しくなると、涙が出る日は減っていきました。
産後の友だちがいると、自分の経験から誰もがこのくらいつらい思いをしていると思ってしまいます。
ですが、人によってはもっと明るく楽しく産後ライフを過ごしていて、あのときの私は、マタニティーブルーとホームシックが両方同時にきていたんだろうなと今では思います。
家族のいないアメリカで出産すると決めたとき、ホームシックになることは想像しても、こんなマタニティーブルーに陥るとは想像できませんでした。
あの、自分の感情をコントロールできない感覚は、これまでの人生で体験したことのないものでした。
海外にいなくても、産後の不安定な精神状態に苦しむ女性はたくさんいるわけで、夫や親のサポートを得られた私は、むしろ恵まれていたんだろうなと思えます。
今でも、ふと日本にいる家族や友だち、情景や季節を思い出して、懐かしい切ない気持ちになることはあります。
それでも、2年半の歳月と娘の存在は、私を強くしてくれました。
慣れ親しんだ場所ではないけれど、大切な家族と生きていくという覚悟ができたような気がします。
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